自由意志

大学に行くことの必要性について英語のバカみたいなエッセイで書かなくちゃならない。

まず高卒、高専卒、専門卒でも社会で働ける。

何がいい仕事かは個人が決めることで、一概には言えない。

多分大企業で安定した仕事、高い給料をもらうことが「いい仕事」の主流な定義だろう。

でもずっと現場にいたいとか、この業界は高い給料はもらえないけどこの仕事が好きだとか、そういう人だっている。

大学に行く理由は、おそらく自分のやりたい仕事が具体的にわかっていないか、わかっていて、大学を卒業することがその業種で必要だから通っているかのどっちかだと思う。ただ純粋に勉強がしたいという人も少数だが存在する。

大学が、その生徒にとって確実に価値あるものでありうるのはこの中のケースの後者2つのみだ。大学では必ず勉強はできるし、また真面目にやっていればほとんどの場合卒業はできる。しかし大学は、自分のやりたいことを教えてはくれない。

大学では色々な授業が取れる。そこで色々な世界への切り口を見いだすことは十分可能だ。しかしそれでも、自分のやりたいことが最後までわからない人だっている。

わからない人は、なんのために大学に行くのか。

他の人がみんな行くから。親や学校が行けと言うから。考える時間が欲しいから。大卒の方が生涯年収が高いから。

これで注意して欲しいのは、この中に一つも、自主的で積極的な理由がないことである。考える時間が欲しいというのは、つまるところ時間の猶予をもらいたいというだけである。決断を先延ばしにしているだけにすぎない。決断を先延ばしにすることはもはや決断ですらない。

そんな気持ちで始めた大学生活はその本人にとって有意義なものになりうるのか。

これもまたケースバイケースだ。

大学でなんらかの手がかりを掴み、やりたいことを見つける人もいるだろう。

見つけられない人もいるだろう。

見つけらない人は果たしてどうするか。

その人は就職活動をして受かった中で一番良さそうなところに就職する。

やりたいこともわからないのでとりあえず聞こえの良さそうなところ、ちょっと興味がある程度のところに応募してみる。そして就職してみる。

そのあとの人生は全くわからない。

その職場がいいところなのか、悪いところなのか、全ては入る前は不明瞭だ。

その人の人生はあまりにも消極的だ。

その人の人生を支配するのは漠然とした恐怖と義務感だ。

社会がこういう風にするべきだと言うから、その人はそれに従うだけだ。

その人に生きる意味はあるのか。

周りのプレッシャーのみに動かされた人生。

他の誰でも代わりのきく人生。

その人をその人たらしめるものは状況の偶然だけだ。

その人の生まれ育った環境とか、親から受け継いだ遺伝子とか、食生活とかだ。

この偶然のみでも人はかなり違う。

むしろ、この違いがほとんどだろう。

自発的に思われる選択も、このような偶然から生成されたものだ。

人の人生の明暗を分けるのはこの偶然の違いだけだ。

人生は自分がどうにかできるものではない。

だから、何かが叶わなかったからと言って、落ち込む必要はない。

これをもし一人でも読んでいる人がいたら、聞いて欲しい。

どんなことがあっても、何をしても、あなたのせいではない。

消極的人生を批判するのは、人に自由意志があると信じている人だけだ。

自由意志がなければ積極的も消極的もクソもないからだ。

でも考えれば考えるほど、自由意志の存在は甚だ疑わしくなる。

私は犯罪者に全ての責任を負わせるこの法体系自体が間違っていると思う。

その人を形成した社会や家庭環境、そしてその人の中の脳内物質が悪いのだ。

その人自体はただのタンパク質の入れ物にすぎない。水や鉱物や草とかと全く同じぐらい穢れなき、ニュートラルなものだ。

犯罪者の体を消滅させることと、今後の犯罪を撲滅することは全く関係がない。

もちろん、懲罰がdeterrentとなって犯行を思いとどまらせることはあるだろう。

それでも犯罪を犯す人は絶対にいなくならない。

母親は死んだ。

少なくとも、母親を通しての事象は止まった。しかし、母親という存在の原因はなくならない。悪い化学物質、不全な家庭環境、更年期障害、そして劣悪な労働条件というのは未だに存在している。

一匹のハエを殺してもハエという存在がいなくなることはないのと同じだ。