Accountability
私たちの人生は果たしてどこまで自分の意思でなんとかなるのか。
まず文系理系の例をとってみよう。
文系理系は果たして努力でどうにかなるものなのか。
テストの点をとるだけなら、なんとかなるだろう。
しかし問題はそのあとだ。
自分が向いていない分野でなんとかテストで点を取れたからといって、そのあとの仕事が同じようになんとかなるかといったらそんなことは言えない。
人間にはどうしても向き不向きというものがある。
向いていない仕事をやっても、できないだけだ。
たとえfランの理系に行ったとしてもまず大学を卒業すること自体不可能かもしれない。
文系はバカだ、理系は賢いと言われることがあるが、これは事実ではないと思う。
今通っている大学では、私の知る限り、自分の通った高校よりよっぽど頭のいい、県で一番の高校からほとんどの生徒が来ている。
しかし大学のクラスは私の高校のクラスと同様に、チャラチャラしてる感じの奴らや、ガリ勉そうな奴ら、どちらでもない奴らも全員いる。
これはおそらくどの大学のどの学部でも言えることだろう。
それぞれの層の人数は前後するだろうが、いずれも一定数いることには誰も反論しないと思う。
それに加えて、私が言いたいのはペーパーテストの得点と、その人の日常の行動の基づく思慮は必ずしも比例しないということだ。
ペーパーテストでは、科目ごとの向き・不向きがよく反映される。
数学の得意な人は数学でいい点数をとるだろうし、英語が得意な人は英語でいい点数をとる。
ところが個人の日常の行動の傾向は、文系理系から予測することはできない。
文系・理系におけるEQの傾向の調査などがされていないことからもこれは明確だ。
理系でも人付き合いが上手な人はいるし、文系でも口下手な人はいる。
なぜこのような調査がされていないのか。
それはEQが個人の性格や育ちの問題であるからだ。
文系理系に分けたからと言って、統計的に有意な結果が得られることはないだろう。
つまり、個人の行動がバカかどうかは、理系・文系によって全く判断できるものではない。
なぜなら日常生活は参考書のように決まった正解のあるものではないからだ。
テストの問題で正解にたどり着けなかったからと言って、その人の普段の行動が思慮に欠けるものだとは限らない。その逆も言える。
だから当たり前のことだが、人の行動は人それぞれなのだ。安易に文系はバカだとか、理系は頭がいいとかいう人は単に教育の場であまり長い時間を過ごしてこなかった人だろう。
これは何に関しても言えることだが、ある人や集団の特徴や特性を取り上げて、だからその人はダメなんだと、だから自分や自分の属する集団の方が優れているんだと、そのようにして自分を安心させなければいけない人は、多分自分に不満があるんだろう。
私もこの例に漏れない。母親の学歴を取り上げて、だから母親はダメだったんだとこのブログで書いたことがある。
私は母親に対して執念を抱えている。
私が生き霊になって母親を苦しめてやりたいぐらいだ。
母親は私に投資するところを間違えたのだ。
公立の中高にでも行って、塾に通うのがコスパが一番よかっただろうに。
今の私の英語能力ははっきり言ってオーバースペックだ。
受験や就職に必要な英語なんて大したことない。
私は海外のカリキュラムでの授業を受けていたために、自分のアイデンティティに確信を持てなくなった。
私は少なくとも語学力の面から言えば欧米人として何の不自由もなく暮らしていけるだろう。アメリカのテレビ番組をネットで見て、英語の映画を見て毎日過ごしている。
しかし生まれ育ったのは日本だ。
名前も人種も日本人なのに、日本語は英語ほど自由には使えない。
日本語のコンテンツより英語でのコンテンツの方が世界的に見て比べ物にならないほど多いから、その面では文句はない。
しかし同じ日本人とのコミュニケーション、日本のコミュニティに融和することは難しいし、アメリカ人や他の国でのコミュニティに融和した体験はもはやないので、自分の母なる文化が何なのか、それすらもわからない。
私は確かに日本人だ。
しかしそれは消極的選択にすぎない。
パスポート上でそうだから。
住んでる国が日本で、人種が日本人だから。
でも日本人じゃなかったら何なのか。
アメリカ風の学校に通ったからと言って、アメリカ人だとは言えない。
このような悩みはみんな持っているものなのだろうか。
日本ではともかく、アメリカやドイツなど移民の多い国では比較的よくあることだ。
そもそも日本人とかそういうことに執着することはもはや現実的ではないのかもしれない。
今はどの国のどの文化もネットでわかるし、どんな人とでもコミュニケーションを取れるようになった。
今でも、日本と何の縁もゆかりもない人々が、ただアニメが好きだからと言って、自らに和風の名前をつけたりコスプレを毎日する人々がいる。
国籍を取得したいとかなら話は別だが、別にただ自分にジャパニーズネームをつけて喜んでいるぐらいなら構わないだろう。
これは果たしてcultural appropriationに当てはまるだろうか。まあこのことは置いておこう。
私が言いたいのは、国籍は別として、自分が好きな文化は必ずしも自国のものでなくても構わないんじゃないかということである。
例えば私はインディアンの政治システムが好きだ。
全員賛成でないとどの政策も効力を持たない。
もちろん、地域に拘束された部族制がいいとは到底思えないが、少なくとも平等はなし得ているわけである。
アメリカのドラマや映画が好きだからと言って、その人は日本人足り得ないのか。
そんなわけはない。
私の国籍は日本だが、私自身は多文化に基づく価値観をもつ人間だ。
答えはもうこれでいいのかもしれない。
EQのテストをpsychologytodayで受けてみた。70点。まあまあな結果だった。