もし自殺が無痛だったら
私は果たして自殺するだろうか。
今最大のネックとなっているのは自殺に伴う痛みと、失敗のリスクだ。
でもそればかりにとらわれて、実際のところ私に死ぬ準備ができているのかということを考えていなかった。
まあ自殺に踏み切るということを仮定しよう。
私はまず父親や友人と話をしなくてはならない。
なぜ自殺がそもそも私にとって論理的なのか、そして財産分与をどうするのか。
私が自殺によって起こす迷惑はどのようなものなのか、そしてそれに対してどう補償するのか。
父親に対して私はどう言うだろうか。
父親の反論は、私が大学を卒業もしていないこと、社会人としての生活もしていないのに死ぬのは早い、多分いいことがあるしやりがいのある仕事にもつけると言うことだろう。
それに対して私はこう答える:
私は今までの人生で幸せな時もあったが、それは自分の中では取るに足らないディテールだ。私はそもそも幸せになんてなりたくないんだ。私は苦労、そして悲しみが一番価値のあるもので、私に価値を与えてくれるものだと考えている。幸せは私の人生において場違いだ。だから私は幸せにそもそもなりたくない。苦しみはもちろん苦しい。価値があると信じているのと、それを楽しむことは違う。
私にとって苦しみ、悲しみ以外は雑音にすぎない。
もちろん、これが逆な人も多くいるだろう。
そのような人が幸せかと言ったら、まあ幸せなんだろう。
でも私にはそんな思考回路が理解できない。
幸せにはなんの苦労も伴わないじゃないか。幸せは受動的じゃないか。幸せは簡単だ。享受するだけなんだ。友人や彼氏と時間を過ごせば幸せじゃないか。
私は長期に渡って家族を築くとか、そう言う幸せは知らないから一概には言えないが、私にとって幸せと楽しさの違いはわからない。楽しいことが幸せじゃないのか。
調べたら、人を助けることが幸せだと書いてあった。
確かに人を助けることは気持ちいい。でもそれは継続性のあるものではない。継続的に人を助けること、それは叶わない。他の誰かの人生の責任をずっととりつづけることはできない。子供だったらそう言うことはあるだろうが、でも私は子供を産むつもりはない。だいたいそれは人助けではなく、子育てだ。
毎月引き落とし型の募金をしてれば幸せなのか。そんなわけはないだろう。
だから、私は幸せに価値をおくことができない。幸せは安易で、簡単だからだ。
逆に言えば、私に安易で簡単な幸せ以外は知らない。
私は考えていた。なぜ好きでもない学校に通い続けてるのか。それは怖いから。行かないと将来が取り返しがつかなくなるからだ。しかしこのマインドセットは一生付いて回るだろう。消極的に就職し、消極的に働き続ける。辞めるのが怖いから。
そんな恐怖だけが動機となる人生は果たして生きる価値があるのだろうか。
最近学歴に関するページばっかり見ている。なんでだろう。心が落ち着くからか。
自分はこんなに特別なのに、なんでこんな大学行ってるんだという憤慨だ。
でもこれは私のせいじゃない。
大学というシステム自体、私にはあっていない。こんなに大勢の人間がいるところに毎日行くなんてまずどうかしている。第二に、高校までの教育は受け身の姿勢で受けていれば大丈夫だった。大学からは問題設定を自分で行えなどと言い出す。
どうせ社会人になってからは受け身の姿勢で仕事をもらうことの方が多いし、問題設定なんて各ケースによって着眼点や目的を全く違うものにしなくてはならないのに、大学がその準備になるとは甚だ思えない。
高校の授業はテストで点をとるためのものだったが、大学もそこはなんら変わるところはない。ただ大学はファクトではなく先生の気にいるレポートや答案がかけなければ単位がもらえないという、教授の裁量一つに任せられているシステムである。教授がある生徒に単位を与えなかったとしよう。理由は「レポートの問題設定がちゃんとできていなかった」、これだけで済むのだ。一見これは理詰めのようで、非常に主観的な理由であることがわかる。これではアカハラと訴えても認められないだろう。自分が差別をしているのでは決してなく、単に生徒が悪いんだと、教授は胸を張って言える。つまるところ、教授の好き嫌い一つで生徒を留年させることができるのだ。
恐ろしい機関だ。
結局のところ、自殺が無痛だったら私は自殺するか。
冷静に考えて、恐怖にのみ突き動かされる人生である限り、私の人生には生きる価値がないと思う。
私にはやりたいことはないのか。
南アフリカに住んで見たいとか、アメリカのシアトルに住んで見たいとか。
それは思うけど、どうしたらそうできるのかは知らない。アメリカで働くことが私の夢?よくわからない。行ったこともない。
意欲をもってこれやりたい!と思うことは全くない。
私にとって大事なのは友人であり、恋人であり、家族だ。私は一緒にいられればそれでいい。
ここでもはや就職で悩む必要は全くないことがわかった。
東京や世界の主要都市にさえ居られれば、そして最低限の金がもらえれば私はいいのだ。
個人塾を開きたい、民泊をやりたいという夢はどうだ。小説を書き終わってみたいという夢は。
私は飽きっぽいから、強制されないと無理だ。
こうするのが当たり前だ、しない奴はおかしいといった最低限のことしか私にはできない。
今まで継続した一番長いことは小中高と通い切ったことだ。もちろん行って当たり前のことだ。
会社で働くのが当たり前だ、そうしない奴はおかしい。私にも会社で働くぐらいはできそうだ。でもはっきり言ってそれだけでいいのだ。
自分は生ける屍だ。
ずっと恐怖と圧力によって人生を決めていく自分はもはや生きているとは言えない。
他の誰によっても取って代わられる人生。
信念のない人生。
私の持ってる能力とかお金とか全て、必要としている人にあげて消えたい。
私が持っていても仕方ないもの。
まあ能力は渡そうと思っても渡せないけどね。
少なくとも、私が持ってる14万円相当の海外のシンセサイザーはあげちゃってもいいと思う。
条件は、演奏がものすごくうまいこと。
上手い人にだったらあげたい。