大学は人生の夏休みか

私にはそうは思えない。

他の世代の人たちはそう言うかもしれない。

なぜなら彼らにとって大学は簡単だったからだ。単位も楽して取れていたんだろう。私の親の世代がそうだ。

だからそれを信じて、入った子供達が苦しむ。

私は本当に一年の時辛かった。

自殺未遂もした。

誰も助けてくれなかった。

でも私はその時死んでいればよかったのか。

いいことは果たしてあったのか。

私の人生にはいいことなんて一つたりともあったのか。

まあ何を持っていいこととするかだ。

悪いことは明確だ。

友達ができなかったとか。高校の時保健室の女に担任に告げ口されたとか(こいつは死んでも許さない。でも復讐の手立てが思いつかない。学校の門の前で待ち伏せして硫酸を顔にかけるか)

母親が自殺したりとか。父親と12年間会えなかったとか。

いいことの基準はぼんやりとしている。

彼氏ができた?まあうれしかったけど、別にいいことっていういいことじゃない気がする。

私の中でのいいことって言うのはもう奇跡みたいなレベルでいいことが起こるってこと。

めちゃくちゃ可愛い中高生の男の子と遊べるとか。

すごく顔が好みな人と付き合ってた時もあるけど、幸せだったけど同時に苦しくもあった。

仏教ではやっぱりこう言う風にあらゆることには幸せと苦しみが同居しているんだってことらしい。

ピンクフロイドの音楽に出会えたこととか。

ライブで聴きにいけたこととか。

昔幸せだと思ってたことは今色あせて取るに足らないものになっている。

昔達成したことは当時はうれしかったが、今はもう嬉しくない。

友達かな。昔友達だった人はほとんどもう友達じゃないけど。

体は健康だったことかな。ダニにひどく噛まれたことがあったけど(未だに跡が残っている)

私は愛されはしたかもしれないけど、誰も本当の意味で愛したことはないと思う。

私が今までしていたのは理想化にすぎない。

この人はこんなに素晴らしいんだ、悪いところなんて一つもないんだと言う勝手な押し付け。

これが私の中で愛に一番近い感情だったと思う。

私は母親を愛してはいなかったし、父親は付き合いがまだ浅くてわからない。

私は愛されること、理想化されることでしか自分に価値を見出せなかった。

でも私を好きになってくれる人はいた。

運が良かっただけかもしれないけど、私はチャラいとかじゃなければ一通りの人と合わせることができる。

まあ最初のうちは外人とばかり付き合ってたのが理由か。

出会える女の数、その中での英語が通じる母数がそもそも少ないし、その中で若さとか性格とかで選別した結果私が一番マシだっただけだ。

本当の愛なんてわからない。

私のことを好きでいてくれた人はいるけど、それもただの理想と性欲の組み合わさったものだけかもしれない。

私は自分のことを他の男に好かれることでしか肯定できない。

思い返すと「可愛い」とか「綺麗」とか「セクシー」とかしか言われてこなかった気がする。

でもそう言ってくれるだけで私は嬉しかった。

誰でもいいわけじゃない。もちろん見た目とか年収とか将来の展望とか身長とか条件をクリアしてる人に言われないと嬉しくない。

今付き合ってる人は顔がよくないし、年収もいいのかわからない。でも彼は私を本当の意味で受け入れてくれていると思う。彼は考え方が立派だし、今まであったことのなかったタイプだ。

私は今まで顔が綺麗な人としか付き合ったことがなかった。

だから彼の顔については複雑な気持ちだが、今まで接点のなかった理系の頭のいい人と言う感じのルックスだからそこには興奮した。身長や体格には問題はない。

私は高校でも中学でも小学校でも男子には必ず嫌われていた。

それがトラウマになったのかもしれない。

逆になぜ年上は何とかなったのか疑問だ。

そっちの方が寛容なのかな。いろんなことに。

私はオタクからもチャラチャラしてるやつからもイケメンからもブサイクな奴からもみんなから嫌われていた。

理由は私がどう接していいかわからず必要に迫られた時以外は会話をしなかったからだ。

もしかしたら私は知らないところで彼らを傷つけていたのかもしれない。

ごめんね。

もう仕方のないことなんだけど。

私は多分実際の生活で恋愛を見つけることは一生できないと思う。

だからインターネットのサービスは大事なのだ。

私はある程度距離を保って、お互いを尊敬し合いたいと思っている。

話が逸れたが、幸せとは何か。

私は今いる人と一緒にいて果たして幸せか。

よくわからない。

幸せがなんなのか、よくわからない。

キスしていても幸せじゃない。

ご飯食べてる時は幸せかな。