私は全てを生まれのせいにできるのか。

私はそもそもどっちつかずの人生を歩んできた。

外資系企業にも国内企業にも特化していない。

まあ国内企業ならなんとかなるが、すぐに新卒で外資系に行くことはそもそもアメリカ人でも難しい。

学者になるべきか。

私は学者が嫌いだ。好きな先生もいるが嫌いな先生も多い。

自分が正しいと思って、違うものは排除する。

それになんの疑問も抱かない。

象牙の塔とはよく言ったものだ。

私はつまるところ、どういう人になりたいか。

どういう人生を歩みたいか。どういう仕事をしたいか。

私は人生の中で一番重視しているのが、人にどう思われるかだ。

私は歩き方と表情をいかに威厳のあるものにできるかを考えている。

背筋を伸ばし、あまり肩の位置が動かないようにして、顔をしかめて歩く。

本当はゆっくり歩いた方が威厳があるのだが、早歩きの方が健康にいいらしいから早歩きをする。

背筋を伸ばすことによって、背がより高く感じ、自分のスタイルが強調できる。

ぴったりとした服を着ることによって自分の体の持つ物理的な力強さ、そして主に胸と尻からなる性的魅力という力を見せびらかす。

私は自分の広い肩幅、太い腕が嫌いだが同時に好きでもある。

なぜかというと強そうに見えるからだ。

これと反社会的な顔の骨組みと、恨めしそうな目と、思いがけない女性らしさのある体のライン。

私は要するに強く見られたいのだ。私の強調する自分の全ては、なんらかの強さ、力をアピールするものだ。全ては攻撃そして防御の目的だ。

でも私は中身はそれほど攻撃的ではなく、結構いろんな人と合わせることはできる。

なるべくスムーズに知り合いとの接触を切り抜ける。

でも恋人となる男とはどうだろうか。

対応はそう変わらない。まず当たり障りのない話題から始め、自分のことを知ってもらう。

相手のことを聞いて、基本的に肯定してやったり、ツッコミどころがあればツッコむ。

自分の思ったことは素直に言う。相手の言うことはまあ否定しない。

なんか知らないが、男にはよく好かれる。

「魅力的」とは親しくなれば必ず言われる。

何を魅力と考えているのかは知らないが、今振り返るともしかしたらこの見た目の攻撃性と案外仲良くしてくれるギャップがいいのかもしれない。

私は自信がありそうだけど何事も一生懸命で、もろいところもあるのが魅力と言われたこともある。

顔が綺麗とか可愛いとかも何回も言われたことがある。

外人だけかと思ったら日本人でも言ってくれる人はいた。

でも私は「可愛い」は似合わないと思う。

綺麗はいただけるが、可愛いは違うと思う。

綺麗さは武器だ。雪女のような。

その一方で可愛いはある意味での見下しだ。愛玩動物を見るような。

だから私は可愛くはなりたくない。

私は伝統的な「可愛い」見かけでなかったから、自らの逸脱に価値を見出すようになったのかもしれない。

私は「可憐」にはおそらく一生なれない。

「可憐」は可愛いとも違って、花のような美しさと儚さだと思う。身近な可愛さではなく、どこか遠くの、ノスタルジックでさえある美しさ。

「可憐」はもう一生憧れだ。

私は全日本女子プロレスとかに近いと思う。

smの女王様とか。

顔が綺麗である必要はない。醜くても、蝿の王のジャックみたいに笑いどころのない醜さであればいい。むしろ醜い方がいい。

一方的で暴力的に性的魅力でねじ伏せる。私には「ねじ伏せる」という言葉がすごくあってると思う。相手のどこかを見下して余裕を保つ。多分こいつはこういうこと考えてるんだ、バカだねえとか思う。無駄な歩み寄りはしない。相手のことを尊敬しているように振る舞い、褒めてやった上で自分の意見をいう。つまり、礼儀よくしてやるのだ。適度な距離を置く。だから涼しい顔で、無理が言える。歩み寄らないから、相手を思いやる必要もない。さも当然だという風に言えば相手も私に対して反論することはない。これが私を話しかけづらくしているものなのかもしれない。しかし私はこのぐらいの距離が好きだから仕方ない。親しくしすぎないようにして、馴れ合いを防ぐ。親しくしすぎなければボロが出ることもない。塗りムラが見えることもない。

 

もしかしたら自分が「可憐」の部門で競争をしないから、他の女子の可憐さを純粋に楽しんだりできるのかもしれない。

強さで競争している人はあまり見かけない。

スポーツをやっている人でも、強いアピールはしていない。

しても良さそうなのに。