なぜ自分を愛するべきか

今回は前回の記事の内容を踏まえて、自分の学歴コンプレックスについて考えてみる。

前自分が考えていた内容を見返して、これがどう誤っているのか、どこが正しいのかを分析してみる。

 

“今エキシビションを見終わった。

肝心の羽生くんの演技中にやっぱり自分よりバカな奴が早稲田の政経行ったことを思い出して、自分は負け組、そいつらは官僚にもなれる勝ち組、

私はもう何もできないということをずっと考えていて、パフォーマンスの技の少なさにイラついていた。”

私はこのとき、自分と高校のクラスメイトとの比較をしている。“自分よりバカなやつ”と見下す表現をしている。

しかしここでいうバカというのはどういうことを指しているのか。

私が尊敬していなかったということか?

自分より努力をしなかったということか?

尊敬していなかったのは確かだが、自分より努力をしなかったというのは確かではない。

自分より努力をしたのかもしれない。

自分はそもそも参加しなかったレースに「自分なら勝てたのに」と言っているようなものだ。

そのレースに参加しなかった時点でやる気がないことは火を見るより明らかだ。

私が出る気のなかったレースに出て、そして勝ったということは、少なくともそのレースでは彼女が私より努力をしたことの確固たる証拠だ。

私はなぜこのレースに参加しなかったのか?

自分には勝つ見込みがないと考えたからだ。

彼女は勝つ見込みがあると考えた。

そこが決定的な違いだ。

私が勝つ見込みがないと考えたのは、やっぱり自分が傷つくことを未然に防ぐコンプレックスの機能からで、コンプレックス形成の第一段階である「気になりだす」というステップで無意識に「自分には無理」と決めつけて、除外してしまったことが原因だ。

これは私がどうにかできることだったのか?

私に父親がその時いてくれたら、私はこのコンプレックスを乗り越えることができたかもしれない。

しかしその時父親はいなかった。

私はたった一人で戦った。

私はたった一人では自分を自らのコンプレックスから救い出すことはできなかった。

このことは事実だ。

 

“私はもう、何もできない。

私は親の誤った認識で育ったために、自分の持つただ一つの可能性を、捨ててしまった。

自分の人生を棒に振ってしまった。

もう死のうと思う。

ドイツで、酔っ払って、川に落ちて死のうと思う。

ハンスギーベンラートのように。”

私はここで自分の人生を棒に振ってしまったというふうに書いているが、早稲田の整形にいかないことが果たして人生を棒にふることなのか?

自分の父親が救い出してくれなかったから、自分の人生には価値がないのか?

ここでさらに自暴自棄になって、自殺するということをほのめかしている。

私はよく自暴自棄になって自殺しようと考えるが、この思考パターンはどういうことに基づいているのか。

今の人生があったかもしれない最良のシナリオの人生でないから、今の人生には生きる価値がないという考え方である。

これは明らかにオールオアナッシング思考である。

100か0か。正解か間違いか。

これは脳の、現実を簡略化しわかりやすくするための戦略に過ぎない。

不確かさを拒絶し、自分を守るための思考になっている。

しかし一体なぜ「自分は無価値だ」と考えることが、自分の防御となるのか?

それは「自分には価値がある」と考えていてもそれが裏切られるのが怖いからだ。

他人に貶められるのが怖いからだ。

他人に「お前は無価値だ」と言われるのと、自分で「自分は無価値だ」と考えるのには明らかな違いがある。

前者は自分のコントロールが及ばず、後者は自分のコントロールが及ぶ。

自分のコントロールが及ぶところはコントロールしたい、他人に言われる前に自分で言ってしまおう、そうすれば傷つかなくて済むという考えだ。

この考え方はある程度筋道が通っているが、やはり他人からの評価に内在する不確かさを考慮しないので、根本的に間違っている。

だいたい他人から無価値だと直接言われることはまずない。

なぜなら例えば就職の面接で落ちても、それはその人の全てを否定したことにはならないからだ。

全てを否定されたと感じることはあるだろうが、それはあくまで「そう感じる」だけだ。

そう感じるのは自分だし、その感情を生じさせることは自分以外の何もできない。

他人はこういう評価を下すだろうと勝手に自分で思い込み、その自分の考える他人の評価から自分を守るためにさらに自分を貶め、オールオアナッシング思考で最終的に自分の価値は0だと決めつける。

完全に自分の頭の中で完結していることがわかる。実際の世間の言い分は全くと言っていいほど入ってこない。

この考え方は私だけでなく多くの人にも当てはまるのではないだろうか。

こういう思考に陥っているとわかったらどうするべきか。

私たちは不確かさを拒絶する上の副作用としてこの簡略化された思考に陥っているから、不確かさを受け入れるためには、傷つくことを恐れない必要がある。

傷つくことを恐れないためには、やっぱり自分を愛する必要がある。

誰かが「お前の大学はマーチ以下で正気だったら誰も入ろうと思わないだろう」と言ったとしても、自分が「そうだそうだ、お前は間違いを犯したんだ、バーカバーカ」と同調するのではなく、「いや、あなたがそう思ったとしても、私はそうは思わない。私の考えは他の誰の意見よりもずっと大事だから、あなたの意見に振り回されることはない。」

と言える愛が必要なのだ。

自分の価値を自分で認めていれば、他人の評価に振り回されることはなくなる。

自分の人生が、他人からの嘲笑への恐れではなく、自分への愛で動いていたら、それだけで人生は成功だと私は思う。

たとえ就職できなかったとしても、自分で起業するとか、自分を肯定してくれる職場で食っていけるだけの金を稼いで生きていくとか、自分を肯定してくれる職場でなくても、動かぬ自分への愛があれば、どこに行っても生きていける。

自己愛の育てかたについては次回以降に触れていこうと思う。