学歴コンプレックス、そしてコンプレックスの正体
私は劣等コンプレックスの総合商社みたいなもので、人間である前に劣等感の塊だ。
私の数多くの劣等感の一つは学歴コンプレックスだ。
なぜ学歴コンプレックスを抱くのか。
自分の大学が世間的に評価が低いから。
なぜそれがコンプレックスにつながるのか。
それは自己評価と世間の評価が一致しないからだ。
学歴のせいで不当な扱いを受けると感じることだ。
不当な扱いを受けた時、私たちは理不尽さを感じる。
学歴コンプレックスというのは、自分の評価を不必要に低くされることに理不尽さを感じることだ。
しかし学歴を判断基準として使うということは一律に大学名を並べて、これはいい大学、これは悪い大学と決めつけることだ。
たとえAさんが懸命に努力してマーチでも、全く努力しなかったBさんが東大でも、その判断されるところは結果であり、本人の持つアドバンテージや障害、努力の度合いは全く考慮されない。
学歴コンプレックスが生じる理由はこれだ。
もし学歴が努力の度合いやアドバンテージや障害の有無で標準化されたなら、私たちは正当に評価されることができるだろう。
ただ企業はそんなことは聞いちゃいない。
親が自殺してようと、幼少期から精神的虐待を受けてようと、そんな事情は企業にとってはどうでもいい。
企業の求めるのは、どんな事情があろうと学歴がよく、優秀な奴隷となってくれる人だ。
その人が受け取るに妥当な賃金よりも低い賃金で働いてくれる人だ。
商品を安く仕入れ高く売るのが市場原理だ。
人材は安く仕入れ、なおかつ高い利益を出させなければならない。
就職活動というのは、労働市場という言葉から分かるように、自分を買ってもらうということだ。
企業で仕事をするということは、つまり自分を安い賃金で雇ってもらい、会社に賃金以上の利益を上げるということだ。
冷静に考えればこれは狂気だということがわかる。
もちろん起業して0から金を稼ぐのにはリスクが伴うし、企業勤めなら一定の収入が入ってくるのに対し、起業する場合赤字が出ることもある。企業勤めをしていた時に得られたであろう給与も逃すことになる。
だからこのリスクを避けて大抵の学生は卒業後企業に勤める。
搾取されることは承知で。
しかしこのリスクが怖くない人は起業するべきだ。
資本主義経済の中で搾取されずに生きていく唯一の方法は起業することだ。
現に日本の高所得者のほとんどは経営者だ。
企業勤めの高所得者はほんの一握りだ。
学歴コンプレックスは企業にとって非常に都合がいい。
なぜなら学生自らが自己評価を低くして、低賃金に甘んじてくれるからだ。
これは東大生にも当てはまる。
東大生になるやつらは大抵、世間から評価されたくて東大に入ったわけだ。
だから大企業に入るためならなんだってする。
外資系コンサルや金融など激務でも、企業名の聞こえが良ければそれでいいと思っている。
賃金は額面から見て高いと思われるかもしれないが、それは市場の原理からして不当に低いことは確かだ。
ホワイト企業でも、高収入を得られるところはまず少ない。大企業や官庁でも新卒の総合職の給与は27万円ぐらい。手取りは20万そこそこだ。これが必死に努力して東大に入ったやつらに妥当な給与だと言えるだろうか。何百万もかけて塾や私立の中学高校に通って東大への道をつかんだ奴らに妥当な運命だろうか。
私にはそうは思えない。
給与は歳をとれば上がっていくだろうが、責任が増えていくのに搾取されていることには何ら変わらない。もしかしたら責任の量と給与が一致せず、搾取の度合いは上がってしまうかもしれない。
東大を卒業して大企業に勤める。
それは一見幸せなルートかもしれない。
しかしその表面の下にあるのは、自分の能力の過小評価、自分以外のエンティティやブランドに頼ろうという姑息な根性、そして自己肯定感の欠如だ。
これは全就活生に関して言えることだが。
だから学歴コンプレックスを抱くということはこの搾取システムに抵抗を示さないということだ。
これでは企業の思うツボだ。
学歴コンプレックスとはつまり世間の評価をもって自分の評価を決めるということだ。
世間が自分に価値がないというんだ、だから自分には価値がないんだという考え方だ。
しかしこの世間とは、一体なんなのか。
この世間というのは一見自分と離れたものに思えて、実際は自分の目を通して見ているものだから、実は自分の考えをよく映している。
私たちの考える「世間」の認識は、ある時この人にこういうことを言われたことがある、そう言われてみれば確かにそういう情報をよく聞くなあ、それがつまり世間の常識なのか、という風に形成される。
これはつまり、気になり出したらそれを肯定する情報をどんどん無意識に選びとってしまい、最終的にその情報が事実だという風に錯覚してしまうということだ。
例えば、自分が太っているんじゃないかという疑いを持った女性が、どんどん「自分は太っている」という証拠を日常生活の中で集めてしまい、最終的に拒食症になってしまうぐらい気にしてしまうようなことだ。
実際のところ、事実なんてどこにも存在しない。
全ては問いであり、答えはないか、常に変化し続けている。
人間がその問いの答えを判断する以上、人は全員考え方が違うから確実な答えなんて存在し得ない。
しかし私たちはその不確かさが怖かったり、それを認めれなかったりするから、簡単な答え、真実と呼ぶものを探し求める。
コンプレックスは、この不確かさを拒絶し、あえてネガティブな方向に自分の状況を考えることで、失望を未然に防いだり自分が傷つくことを経験せずにすむようにすることから生じる。
これはごく自然な反応だ。
ネットで自分に不利な情報をどんどん集積できるようになったから、人々がこれほど不幸になったのではないだろうか。
ネットは私たちのコンプレックスをまるで大切な子供のように育てる。
その子供は巨人になり、まるで絶対的な事実であるかのような顔をして、「お前には価値がないんだ」と私たちを苦しめる。
人の認識や考え方などは、全く測れるものではないのに。
そもそも他人のころころ変わる評価で自分を苦しめることは全く生産的ではない。
自分を貶めるのはいいが、それを他人の声を借りてするんじゃない。
自分の声で自分を貶めるんだ。
自分が自分のことを一番分かっているはずだ。
自分に妥当な批判は自分しかわからない。
だからコンプレックスを克服するには、自分の頭で考えないとダメだ。
他人はこれでいいと思うだろう、これじゃダメだと思うだろうという基準ではダメだ。
自分はこう思う、ここはダメだ、ここはいいんだと、
自分の声を取り戻したなら、私たちはコンプレックスを克服できるんじゃないか。