私はもう、何もできない

キンタマフェイス先生の授業はまるで教室の中でただ自分一人が精神病、失読症にかかったかのように意味不明だった。

他の生徒はなぜわかるのか。

内容が難しいわけじゃない。読めと言われた本は読んだし、内容はわかった。

しかしこの老害の意味不明にただべらべらと独り言のように続ける、意味のわからない話はどんなに集中して聞いてもまるで指の間を抜ける砂のように頭に入らなかった。

授業の最初の数回はひたすらスマホゲームをして過ごし、後半の授業は頑張って聞いたが毎回胃が痛くなるぐらい怖かった。

自分の無意識にしてしまう妄想が怖くて。

名指しで罵倒されるんじゃないかとか。

お腹が痛くて暖かい缶ココアを買ってポケットに忍ばせてたことを思い出す。

自分はダメだと思わされた。

こいつは敵だ。

先生でも家族でも友達でも、自分が十分でないと思わせる奴は例外なく敵だ。

そのような敵からは自分をなんとしても、全てをかけて守らなくてはならない。

キャッチ22のヨサリアンのように。

でも私はこの理不尽な事件、そしてそれについてどうにもできないことがずっと頭から離れなかった。

先生が自分を認めてくれて、うれしかったことはいくらでもあったはずなのに、ネガティブなことばかりが頭を巡る。

だから私は自分によくしてくれた先生を数えようと思う。

まずy先生。Sをくれた。

同じくSをくれた、すごくいい友達になれそうなs先生。

うちの学科の先生全員(8人)、授業が楽しかったk先生。m先生、英語系の先生全員。ゼミでお世話になるr先生。

ざっと数えると、14人。

でも良くも悪くもない普通レベルの先生はそれ以外全員だから、悪い先生というのは実際この金玉顔だけだ。

こいつだけのために私の通う大学が「悪い大学」というのは間違っている。

昔は単位をくれるいい先生だったらしいのに。何でこんな老害に成り下がったのか。

残念だ。

君には実に失望したよ、キンタマフェイスくん。

君をガス室送りにせざるを得ない。

私の望んだことではないが、これも仕方のないことなのだ。

さようなら、キンタマフェイスくん。

 

冬季オリンピック

今回のオリンピックが初めて真面目に見たオリンピックだった。

羽生くんの伝説のパフォーマンスを祖母とリアルタイムで見れたのは嬉しかった。

もし祖母と高校の時もっと仲良くしていたら、私の人生はこれほど殺伐としていなかったのかもしれない。

決して仲が悪かったわけじゃないんだけど。

一緒に買い物とか行ってたし。

今日は女子カーリングを見た。

イギリス人の投げる人がひたすら綺麗で見とれてしまった。

イギリスがこけたおかげで日本が勝てたらしい。

スキーではAコースかBコースかで勝利が決まってしまったり、スピードスケートでは他の転んだやつに巻き込まれてそのままご臨終、という感じで、結局自分のコントロールが及ばないところで明暗が分かれてしまうということが多いみたいだ。

でも多くの人がオリンピックを見る理由がわかった。

選手たちは精神的苦悩に押しつぶされるのか、それに打ち勝つのか。

メダリストは、特に金メダリストはgrace under pressure を見せてくれるから、観客はそれに勇気付けられるんだ。

ヘドが出る。

エキシビションを見終わった。

肝心の羽生くんの演技中にやっぱり自分よりバカな奴が早稲田の政経行ったことを思い出して、自分は負け組、そいつらは官僚にもなれる勝ち組、

私はもう何もできないということをずっと考えていて、パフォーマンスの技の少なさにイラついていた。

私はもう、何もできない。

私は親の誤った認識で育ったために、自分の持つただ一つの可能性を、捨ててしまった。

自分の人生を棒に振ってしまった。

もう死のうと思う。

ドイツで、酔っ払って、川に落ちて死のうと思う。

ハンスギーベンラートのように。

遺書を今日中に、もしくは飛行機で急遽書かないといけない。