■
成人式の入場券をアパートに忘れてきた。
今電車で帰る。家に着くのは12時近く。朝は遅くとも7:28の電車にはのらなければならない。
なんのために実家戻ったのか。
全ては私の不注意のせいだ。でもこれはわざとしたわけじゃない。わざとじゃないからミスなんだ。
ミスで人生が左右されるなら、それは自由意志はないということなのではないか。
自由意志は存在しない。
私は脳の不完全な認識と化学反応によって意思の錯覚に踊らされている。
実際は私の育った環境、周りに吹き込まれた考えが全てなのに。
私という存在には何一つオリジナルなものはない。私のすべてはただの虚像にすぎない。
火曜日の宿題はやっておいてよかった。
人間について唯一ユニークなのは、その人の趣味とか癖とか、そういう小さなことだと思う。
私がピンクフロイドが好きなのは別に誰かの影響じゃない。youtubeのサグジェスチョンで出てきただけだ。
ギターじゃなくてシンセが好きなのも、誰かに言われて好きになったわけじゃない。
本当になんとなく、好みだからだ。
この嗜好の違いこそが、なんかの鍵なんじゃないかと私は思う。
電車に間に合うか20分余計に待たなきゃいけないか、それも自分がコントロールできることじゃない。
神の意志というのはつまり自分がコントロールできないということだ。
人生のほとんどは自分はコントロールできない。
自分がコントロールできると思ってることさえ、ミスとかに影響される。
だから自分のミスが自分のせいじゃないなら、自分の人生自体も自分のせいじゃない。
これは本当なんだ。
でも問題は誰のせいかということではなく、どれぐらいその人生の中で幸せでいられるかだ。
私は今まで幸せじゃなかった。いや楽しい時もあったが、圧倒的に不幸だった時間の方が長い。
環境は自分のせいじゃない。でもそこで幸せだと信じるかどうか、それは自分次第だ。
これにも落とし穴はあって、うつ病とか、そんなにシビアじゃなくても脳内の化学物質でこの認識さえ変わってしまう。
自分の感じる感情は果たして自分の選んだことなのか?
アドラー心理学ではそうだという。
これなら何があっても自分は幸せだ、と言い張れたならもうなんでもいいんじゃないか。
自分のいる環境に対して文句はいくらでもつけられる。
私たちはいいところは当たり前と考えて全く見えなくなり、無い物ねだりばかりする。
逆にいうと、何があっても自分は不幸だ、と言い張る人はどんなにいいことがあっても不幸であり続ける。
だからそういう人はどんなに努力をしても報われることはない。
なぜなら、はなからもう何があっても不幸だと信じているからだ。
もう仕方ないことなんだ。
何をしても同じぐらい不幸なんだ。
その人にとってはもはやどんな選択も無意味だ。
電車に間に合った。2分ほど早く電車がついて乗り換えができた。びっくりするほどスムーズだった。
今年からは神の意志ノートを作ろうと思う。
完全に神の意志(自分がコントロールできる要素は皆無)に任せられた状況の場合、どう転ぶのか。
統計的に考えてみようと思う。
いいが1、悪いが0。二者択一でない場合は小数点。
これは面白い。
家に帰ったらスプレッドシートを作る。
試験の出題傾向とかはどうだろうか。自分の山に当たったら優しいと思うだろうし、逆も然り。これは自分が勉強できる範囲をある程度コントロールできるから除外か。