セイウチ調教
もちろん、本物のセイウチを持ってくるわけにはいかない。さすがの私でも罪のない、美しい動物をいじめたりすることはできない。人間の方が手に入りやすく、また私にとって罪悪感がないという点でセイウチに適役だ。
私はすでに目標を定めていた。会社のTという太った男。身長は170cm、体重は優に100キロオーバーだろう。愚鈍で垢抜けない、見ているだけでイライラする男。未だ独身。まさにこいつが適役だろう。
彼は口数が少なく、同期ともほとんど話さない。いつも昼食は自分の机でコンビニの不味そうな弁当を買って食べている。
私と彼の机は間に距離があるが向かい合っていたので、私にちらちらと目線を送っているのには気づいていた。私の脚を見ていたんだろう。ある時、彼と私は帰りが一緒になり、私は会社を出たところで声をかけた。
「Tさん」彼はびくっとして振り向いた。
私は改めて彼の顔をみとめた。一本につながりそうな太い黒々とした眉毛。頰は赤ん坊のように膨らみ、下膨れになって二重顎と一体化している。青白い肌。肌は意外にもきれいだ。
「Tさん、これから帰るんですか」
「はい」
「お急ぎですか」
「…いえ」
「じゃ、一緒に帰りましょう」
会社は電車の駅からしばらく歩くので、私と彼は暗い街を並んで歩いた。
あたりは静かだった。
彼の鼻息が常に聞こえた。近くだとこんなにうるさいんだな。常に深呼吸をしているような。肺に相当な負担がかかっていることが推測できた。
「寒いですね、寒くないですか」
「僕は寒くないです」彼は言った。「デブなんで」
出身が北海道の網走だと聞いて運命を感じた。流氷の町、海も凍る町。囚人の町。